金塚友之丞年譜

年譜

岩野論文高志路バックナンバー、その他より作成。

  • 1890(明治23)—-3月、北条村大字東長鳥(現柏崎市)に生まれる。農家の三男で4年課程の小学校卒業後農業に従事。
  • 1910(明治43)—-独学で教員試験合格し、同年吉井小学校(刈羽郡中通村)訓導
  • 1911(明治44)—-4月より才津尋常高等学校(三島郡深才村)訓導。
  • 1916(大正5)——10月、福多尋常小学校(栄村立福多小学校)訓導、福多実業補習学校訓導を兼務。
  • 1918(大正7)——一ノ木戸尋常小学校(三条市)訓導。三条中沢家に婿入りするも第二子出産時に妻が死亡し戸籍を抜く。
  • 1920(大正9)——-下条尋常高等学校(十日町市)。この間昌子(沼垂出身)と職場で知り合い結婚、昌子は結婚後退職し6子を育てる。
  • 1925(大正14)—–柏崎中学校教諭心得
  • 1930(昭和5)——-地理科免状受ける。翌年から柏崎中学校教諭となる
  • 1932(昭和7)——-12月31日付で新発田中学校教諭。39年、50歳定年まで同校に勤務。
  • 1935(昭和10)——高志路初投稿(6月・6号)「康平図・寛治図偽作論」。大木金平との論争が翌2月まで続く。
  • 1936(昭和11)——5月(17号)から「北蒲原郡を中心とせる民俗調査報告」を芝中生徒有志と3回連載。
  • 1937(昭和12)——10月(23号)より故郷刈羽郡を中心とした「地言葉と農民生活」開始。1940まで25回続く。
  • 1939(昭和14)——北越商業高校教諭。地歴、公民を教える。
  • 1940(昭和15)——8月(69号)より北蒲原郡の地唄を翌年3月まで5回連載
  • 1941(昭和16)—–「遠藤七郎」(郷土研究社)出版。刈羽、県内全般についてさまざまな投稿。高志路では1942年1月「口に入れた野生生物」から1948年2月「年齢習俗の断片」までの間は高志路への投稿なし。
  • 1949(昭和24)——10月(138号)「県下の民俗入門」連載開始。年内は12月まで3回、翌1950年に3回(この年は高志路が1,2,3,6月しか発刊されておらず、その後1953年5月まで発刊なし)。1953年10月に8回で終了。
  • 1954(昭和29)——-3月(151号)「蒲原低湿地帯のあれこれ」連載開始、翌年6月まで11回。
  • 1955(昭和30)——-7月(166号)から「蒲原低湿地帯第二部 農民の功業」連載開始、1957年4月まで10回。続けて「あれこれ第二部」を開始、1963年まで18回連載。
  • 1960(昭和35)——–9月(188号)「農民の功業19・田小切り」の冒頭に「いろいろな事情が重なり合い、従来の書き方で続けることはできなくなったため、今後は特色ある部分だけを取り上げ、専ら内容の進行をはかりたいと思う」
  • 1961(昭和36)——-北越商業学校退職72歳。
  • 1962(昭和37)——-4月「鎧潟周辺の民俗」(巻町双書)出版
  • 1964(昭和39)——-4月「あれこれ」に続いて「蒲原低湿地帯第三部 農民の生活」を連載開始。農民の生活(1)として地域ごとに仕事着の名称、装いを羅列。構想は多岐にわたるが「現在の健康状態で果たして書き終わらせるかどうか頗る疑わしい」と書いており、実際「第三部」のシリーズはこの(1)のみとなった。
  • 1966(昭和41)—–「鎧潟:鎧潟干拓地域民俗資料緊急調査報告書」で「村むらにおける農耕習俗」を担当。巻町役場より「鎧潟と田ブシン」出版。
  • 1968(昭和43)——-11月(216号)「小正月行事用の樹1」が高志路最後の投稿となる。この頃老齢につき三条の息子尚と同居
  • 1969(昭和44)——このころ妻昌子肺結核で入院
  • 1970(昭和45)——12月「蒲原の民俗」(野島出版)発刊。当時本人は肺結核で三条市にて入院中。本は見ていない。
  • 1971(昭和46)——3月、逝去80歳