ワトキンスレポート概要

日本の高速道路は1940(昭和15)年に内務省土木局が、ドイツのアウトバーンを参考に東京ー神戸間で建設構想が生まれたのが最初。同年「東京下関間幹線道路促進同盟」が結成される。

1951(昭和26)年に建設省が内務省土木局の構想に基づいて調査を開始し、1954(昭和29)年に「名古屋・神戸間高速道路計画」ができ、翌年第22回国会に「国土開発縦貫自動車道建設法案」が提出される。しかし田中清一が提唱していた国土開発中央道(山梨・静岡・長野の山岳地帯を経由)構想(=1954年6月から国会において国土開発中央道調査審議会が設置され審議されていた)といずれを採用するかで割れていた。

招聘の背景

川本稔調査団最高助言者・高碕達之助秘書によれば、招聘の1年前に吉田茂首相から高速道路を作りたいと意を受けた高碕達之助(当時電源開発総裁)にリクルートされ秘書となり、アメリカへ行かされる。「吉田総理の考えは、当時、余剰農産物資が日本にどんどん入り、その資金である円がかなり溜まっているので、それを使わせてもらう交渉をしよう」(余剰農産物処理法で農産物が日本に売却され、支払った円が蓄積されているのでこれを借り受けて高速道路建設費に使えないかということ)ということだったが叶わず。吉田首相から「残念だったけれども、ウォールストリートの法律事務所に君を預けるから、有料道路の起債の勉強をしてくれ」と言われる。最終的にモルガンスタンレーにも起債を断られ、ニューヨーク州知事(デューイさん)から強力な調査団を日本へ送れと助言を得てワトキンスに依頼。(報告書300p)

当時世界銀行は高速道路の必要性に懐疑的で

ミスター・ドールという日本の担当者に会い「日本は道路を作りたいんだ、金を貸してくれ」と言ったら「ノー、日本は道路なんかいらない。日本はインシュラカントリーだからマーチャントマリーンをもっと発展させろ、それが一番早道」だという答えが返ってきました。

報告書301p 川本稔の回想

調査団

1956(昭和31)年5月19日に来日。調査期間は81日で、提出は8月8日(序文の日付)。団員は

  • ラルフ・J・ワトキンス(Ralph J.Watkins)団長 経済学者
  • エベレット・E・ハーゲン(Everett E .Hagen)ー当時MITの計量経済学者
  • ウイルフレッド・オーエン(Wilfred Owen)ーブルッキングス研究所の交通経済専門家
  • フランク・W・ヘリング(Frank W.Herring)
  • H・マイケル・サピアー(H.Michael Sapir)ー終戦後日本に来ていたエコノミストで妻が日本人
  • グレン・E・マックフロリン(Glenn E.McLaughlin)

事務所は松本楼(日比谷)別館を借り切り、宿泊は帝国ホテル。

調査は提案された高速道路の経済的、技術的妥当性に関して総合的・客観的に検討することを目的とし、主要な6項目を問題点とした。

  1. 神戸・大阪・京都・名古屋地域において輸送面で最も顕著に必要とされるものは何であるか
  2. 有料高速道路は、これらの運輸面の必要に応じるための最も効果的な方法であるか
  3. 有料道路は、どの程度までその収入で所要資金を支払い得るか
  4. この有料道路の技術的計画ならびにその事業費の積算は堅実な方法によって作成されたものであり、かつ妥当なものと認められるか。もし妥当でない点があるならば、その点の修正方法はどうすべきか
  5. この有料道路建設により日本経済の発展ならびに国際収支に及ぼす効果はいかなるものか
  6. この有料道路建設のため所要の国内並びに外国資本を割り当てることは、日本経済が、これ以外に必要とする主要なものを考慮に入れてもなお妥当と考えるか

日本の道路は信じがたい程に悪い

当時マスコミ等で引用された文言「日本の道路は信じがたい程に悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない。」は「調査結果と勧告」の冒頭、道路運輸政策に対してのもの。

そのほか

日本の輸送体系には三つの顕著な事実がある。第一には鉄道の支配的な地位であり、第二には日本の道路の信じがたい程の貧弱な現状であり、第三んいは満足な道路の欠乏にもかかわらぬ自動車交通の目ざましい成長である。

報告書23p「日本の輸送体系」

東京駅の前は石ころがたくさんあって、あたかも海岸の波打ち際に立ったような感じだ、と言われた。

報告書311p 川本稔の回想

公表後

道路公団初代総裁岸道三は、世界銀行借款のため国内の財政、経済、交通各分野のエキスパートに依頼して「ワトキンス調査報告書検討委員会」を発足。1957(昭和32)年4月「ワトキンス高速道路調査報告書の研究」を提出した。