黎明期の高速道路

戦後急激に増えてきた自動車に対し、道路整備は一般財源のみでは間に合わず、①一般財源以外の財源から道路整備費用を出す②政府借り入れで建設費を出し、利用料金で償還するーの2つ方法が検討された。

①に関して
揮発油税は戦前にあったものが1947年に復活し、一般財源に繰り入れられていた。間接税としては「極めて高率」(『高速道路五十年史』)で批判が多かったため、これを道路特別財源に充てることは好意的に受け止められ、1953年7月23日「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が成立する。

復活した揮発油税の税率は100%で、年間50億円程度の税収を見込んでいた(「我が国における揮発油税の沿革に関する一考察」)。

②に関して
道路法制定(1952年)と同時期「道路整備特別措置法』によって有料道路の制度が発足し、同時に「特定道路整備事業特別会計法」で郵便貯金等を原資とする資金運用部資金から借り入れを起こし財源を確保することになった。道路公団設立以前に行われた借り入れは99億円(内10億円は一般会計からの借り入れ)で、関門トンネル、西海橋、笹子トンネル、戸塚道路、若戸大橋等直轄事業8箇所、地方公共団体事業27箇所の建設が進められていた。

日本道路公団設立(1956年4月16日)から

民間投資の受け入れを可能にし、さらに道路整備を促進する受け皿として国会に提案された。成立翌月にワトキンス調査団が来日しており、世銀からの借款に呼応した動きでもある。初代総裁は当時経済同友会代表幹事を務めていた岸道三。上記②の事業は道路公団が引き継いだ。

1957(昭和32)年4月16日「国土開発縦貫自動車道建設法」施行。これは田中清一が1947(昭和22)年政府とGHQに提出した「平和国家建設国土計画網」がもとになった、東京ー名古屋間を山岳地帯をトンネルで結びほぼ一直線に結ぶ高速道路計画で、この時既に調査されていた小牧ー吹田間が先行法定された。

同年10月16日、名神高速道路の整備計画が決定され、翌日建設大臣が道路公団に施工命令。延長190km。

世界銀行からの借款

1956年時点で日本政府は世界銀行から7,790万ドルの融資を受けており、世界銀行は高速道路建設への融資には消極的だった。世界銀行側からは①着工優先区間の設定②建設費削減策の提示③線形、土質、舗装面で海外の技術専門家による判断を重視する④国際入札の採用ーなどの条件を提示。日本側が全て受け入れ1960(昭和35)年3月17日、ワシントンで第一次借款契約調印。名神高速栗東ー尼崎間を対象とする4,000万ドル(144億円)の借り入れが成立。第二次は翌年11月に同額。当時東名姑息の建設費は1,148億円と見積もられており、世銀からの借入金は25%に当たっていた。最終的な建設費は1,164億円。

世銀から条件として提示された外国人コンサルタントは、西ドイツアウトバーン設計者のドルシェ、アメリカの土質・舗装専門家のソンデレガーが来日。日本国内でクロソイド曲線を初めて用いたのは三国峠だが、この時ドルシェによって本格的に日本に導入された。

クロソイドそれ自身でいえば、日本でそれを道路に使ったのはもっと早く、昭和28年のことで、その頃、建設省の浅井新一郎氏が、三国峠で緩和曲線として用いたのがその始めである。

建部健一「私の高速国道建設史」旬刊高速道路 昭和58年10月5日

国土開発幹線自動車道路建設法と7,600km構想

高速道路は当初個々に建設法が制定されてきた。東海道幹線自動車国道建設法(1960年)、関越自動車道建設法(1963年7月)、東海道北陸自動車道建設法(1964年7月)、九州横断自動車道建設法(1965年5月)、中国横断自動車道建設法(同年6月)などがそれ。体系的に高速道路網を整備する必要から建設省は1966年3月「国土開発幹線自動車道路網について」と題する報告書を発表し、延長1万キロを超える道路網の仮案を提示した。仮案は人口10万人以上の地方都市、新産都市、功業整備特別地域など地方開発拠点を相互に連絡するもの。これが絞られて7,600kmとなり、上記個々の建設法が統合され、同年「国土開発幹線自動車道建設法」が成立。7,600kmの予定路線が定められ、7月25日に第一次施工命令。

土屋は7月から高速国道課課長補佐に就任しており、渡辺修自によれば第四次施工命令までを担当した。

  • 第一次(1966年7月25日)
    東北自動車道、中央自動車道、北陸自動車道、中国自動車道、九州自動車道の縦貫5道のうち、緊急に整備を要すると判断された6区間1,017km。
  • 第二次(1968年4月1日)
    縦貫5道のうちの新区間と、札幌冬季五輪に関連して北海道縦貫自動車道路千歳ー広島間、明治百年記念公園事業に関連する関越自動車道川越ー東松山間、新東京国際空港事業に関連する東関東自動車自動車道千葉ー成田間、万国博覧会に関連して近畿自動車道松原ー吹田間、泉南ー海南間、関門自動車道、9道15区間847km。
  • 第三次(1969年4月1日)
    中央自動車道と新東京国際空港線など4道4区間96km。
  • 第四次(1970年6月9日)
    北海道縦貫自動車道など3路線、筑波研究学園都市建設事業に関連し常磐自動車道三郷ー千代田間の計4道5区212km。
  • 第五次(1971年6月1日・7月12日)
    北海道縦貫自動車道など8道10区間494km、次いで7月に北陸自動車道上越ー長岡間間65kmが追加。
  • 第六次(1972年6月20日・8月3日)
    北海道縦貫自動車道など9道14区間479km、次いで8月に北陸自動車道上越ー糸魚川間44kmが追加され計523km。この時から「縦貫」から「横断」へ展開。
  • 1973年3月に供用中の北海道横断自動車道小樽ー札幌西間、関越自動車道東京(のちの練馬)ー川越など三道4区間125kmが一般有料道路から高速道路へ編入の施工命令。
  • 第七次(1973年10月19日)
    東北横断自動車道などの新路線を含む13路線20区間803km。山形県など4県が区間に加わり、この時で全ての都道府県に高速道路路線の施工命令が出た。