『道を拓くー高速道路と私』より関係者証言と土屋雷蔵マーカー部分

同書籍は1985(昭和60)年10月20日、全国高速自動車国道建設協議会設立20周年を記念して非売品として制作したもの。同協議会の機関誌「旬刊高速道路」に75年から連載された「私の高速国道建設史」をまとめた。松崎彬麿(土屋が新国へ異動したあと、1968年8月〜1970年7月まで高速国道課長)から土屋に謹呈されている。各所に赤鉛筆で傍線が引かれており、土屋の講演「回想北陸自動車道」の内容と関連が見られる。

青木一男寄稿分への傍線

  1. その修正案は一応、衆議院の原案の「別表」の通り高速自動車道の路線を決めるが、政府が調査をして、その調査に基づいて改めて路線をきめる法案をもういっぺん出すと、こういうことではどうかと相談した。(4p)
  2. 私はもう一度路線法を出すという修正案を出し、これでまとめたのだがあとになって、この修正案が自縄自縛となり、私どもは非常な苦労をしたという皮肉な結果を生むことになった。(5p)
  3. ところが34年9月になると東海道第二国道建設期成同盟が発足し(7p)
  4. 東京〜名古屋間に2つの高速道路を建設することは困難であり、仮に財政上許されるとしても、地域均衡論の上から他の地域が看過しないであろう。(10p)
  5. 「東海道には高速道路、中央道には法律を」(11p)
  6. 35年5月4日(12p)
  7. 「大臣の提案に同調する腹を決めるから、党と政府の保証については十分に責任を持ってもらいたい」(13p)
  8. ところが、大蔵省はこれに対して投資規模を1兆8千万円に査定し、中央道の建設費は全額を削除するという方針を示したのである(16p)
  9. 中央道の建設費に416億円、東海道には844億円を配分する(17p)

法案は衆院439名(当時の定数は467名)が提案者に名を連ねており、衆院は原案通り通過したが参院を通過できなかった。青木は「当時、参議院には緑風会っという有力な会派があって、衆院の議員立法に全然関係していない…こういう大事業を政府が基本調査もしないままに路線を議員立法で決めてしまうのは時期尚早であるといってその法案に反対した」と述べている。これを打開するために青木は2の提案をしたものの、この間東海道案が力をつけ、事態が混沌としてくる。

6は青木のもとを村山勇建設大臣が訪ねてきた日。「この状態では中央道の予定路線法案も東海道高速自動車国道建設法案(1961年3月15日、議員およそ300名の署名で国会ではなく自民党政調会建設部会に提出されたp143参照)も共倒れになることは必至だ。どうか中央道側で譲歩して東海道案を認めてもらいたい。そのかわり中央道については、政府と自民党で建設促進の保証を与えるから、両法案の同時審議の線で妥協してくれないか」という申し入れがあり、7の返答となった。

8は翌1961年、岸内閣から池田内閣となり、所得倍増計画の初年。第三次道路整備五箇年計画の初年でもあり、2兆3,000億円の建設省原案に中央道建設費が550億円計上されたが、建設省がはねつけたという話。確定は2兆1,000億円でうち有料道路事業は4,500億円。このうち中央道はいくらなのかと何度も照会した際の答えが9。6によって建設省との関係は良好になったが、大蔵省と経済企画庁が「中央道への事業費の配分に反対しているため、建設省の原案がどうしても通らない。反対の理由は①中央道は建設費が高い上に経済効果が少ない②東京〜名古屋間の高速道路は東海道案だけでよい。中央道の建設は二重投資になるから、後回しにすべきだ、ということであった」と述べている。

その後青木は自民党幹部の説得にあたり、中央道建設費を400億円とすることに成功。翌1962年5月に東京ー富士吉田間の整備計画が決定される。

三野定寄稿分への傍線

  1. 今でこそ東北、中央、中国、九州に北陸を加えて縦貫五道と称するが、北陸自動車道が予定路線に追加されたのは36年11月、私が高速道路課長に就任早々のことであった。縦貫道法が32年に成立した時は、北陸道は予定路線にはなかった。だから遅れてはならぬ、ということで、北陸道五県の方々が石川県を中心として猛烈な運動を展開された。この運動は予定路線追加後も着工まで、次々に発展している。関係者のほとんどの方々が、今も建設促進同盟会で活躍しておられるが、印象に残る故人になられた方として、後の農林大臣坂田英一代議士、当時の石川県知事田谷充実氏の(161p)
  2. 37年8月に私は企画課長に転じたが、企画課長時代に全国の高速道路網計画を立案した。浅井新一郎氏(現首都高速道路公団理事長)が作業の中心で、7,600キロの原案は41年にいたって瀬戸山建設大臣時代に法制化(168p)

坂田は石川県出身。三野はもともと縦貫道路線になかった北陸道を追加させた功労者として坂田と田谷の名を上げている。土屋は講演の中で具体的には語っていないが、北陸道は計画になかったことに触れているためこの傍線になった。

三野は「田中清一先生にも何度かお目にかかった。丸ビルの事務所にも沼津の工場内のお宅にも伺ったことがある。一介の野人であれだけ社会を動かしたのは、戦後の暗い時期に国民が何かを待望しているという社会的背景があったにせよ、やはり道路史に残る人物であったと思うが、惜しまれるのは、技術スタッフが欠けていたことである」(164p)と田中を評している。

ちなみに、青木一男が中央道のルート変更を提案する契機となった欧米視察の日程を作成したのが三野。

小林元橡寄稿分への傍線

  1. その年の12月になって、先生から尾之内次長と一緒に丸ビルの事務所に来られたいとのお話で、早速参上したところ、先生は威儀を正して「これから申し上げることは重大なことですから、そのつもりで聞くこと」と言われて、中央道路線の諏訪回りの変更の件を持ち出された。(182p)
  2. 40年10月、全国高速自動車国道建設協議会が創設されたが、その前年から高速道路熱が全国に拡大し、各関係都道府県とも大変オクターブが上がり、東北、北陸、中国、九州の各道が認知されてきた。そこで中央道を中心にして、青木先生を盟主として五道を一本化させ、強力な推進団体にする時代であるとの認識から、秋山事務局長と各方面の根まわしをし、次の栗田課長の時に実ったわけである。(188p)

1の「先生」は青木一男。前任者の三野が設定した欧米視察を1962年秋に行い、同年12月の出来事。東京ー富士吉田間以西は青木が感じていたとおり「あくまでもペンディングの意向であったことは否めない事実であった」と小林も認めている。

先生が、その本旨というべき未開発地域開発の趣旨に少しでも矛盾すると思われることを、公式に発言されたことは、当時として、私どもには考えられないことと言っても過言ではないことだった。

しかも、そのことにっよって生ずる法律的、政治的な責任はいっさい引き受けて、建設省には絶対迷惑をかけない、と断言されたー失礼ながら、先生特有の多少からだを振り動かしながらジーッと相手を見つめられてーことは、正に古武士の感があり、圧倒されんばかりだった。(182p)

栗田武英寄稿分への傍線

  1. 路線別採算制の制度であった。…当時は高速道路の建設は「国土開発縦貫自動車道建設法」に基づく政令によって予定路線が定められた東北、中央、中国、九州、北陸の五縦貫道すなわち五道のみが着工の有資格者であって、その他の道路はまだ調査路線であったから、五道のうちどの区間に着工するかが議論の対象であった。(192p)
  2. このような情勢では、大蔵省の希望する単独路線重点建設計画は不可能であり、私どもは早くから五道の同時着工を基本として(193p)
  3. 検討の結果約900キロの第一次案を作って(194p)
  4. 基本計画即整備計画という考え方を変えたのである。基本計画は総理大臣が建設を開始する意思の表示であり整備計画は建設大臣が建設に着手する具体的な計画であるから、総理大臣の意思決定を受けて建設大臣が実施方策を検討すればよい。実施上の隘路となる制度や財源上の問題点は党の政調会の協力をうけて、政策的に解決すればよいではないかという考え方である。この考え方で第二次修正案がまとまった。(201p)
  5. 併せて自動車の利用効率を高めるために現行の料金制度を再検討する(207p)
  6. 審議会の議を経て、基本計画が決定されたのは、40年11月1日であった。(208p)
  7. 全国協議会の設立は…ついに10月20日、設立総会を開くことが決定されたのである。(211p)
  8. その前に消化しなければならない日程が控えていた。それは全国自動車道網の整備である。…事実、これまでの建設法は、議員立法によって(219p)
  9. これらの要望を次の機会にゆずることで原案通り了承され、3月22日の閣議で法案提出が決定されたのである(223p)
  10. 整備計画案の各省庁打ち合わせは昭和41年3月頃から始められた。(226p)
  11. 泥まみれの苦闘からみつけ出した妥協案は、完成予定期日を明示しないで、計画をまとめることであった。名神、東名の整備計画は供用開始年度を明示し、忠実にこれを守って完成させてきた。(230p)
  12. これからは進むも止まるも全国各地の人人と共に考えてゆけばよいーということになって(231p)
  13. 地域開発と路線別有料採算制の矛盾である。この解決のためにその後プール採算制が採用されたが(232p)
  14. 第一次整備計画として五道1,010キロの区間が決定され短尾は昭和41年7月25日であるが、(235p)
  15. 建設区間を分割して建設省の地方建設局に委託する案が検討されたのもこの頃(239P)
  16. 先に決定した縦貫五道十ヶ貫通の基本方針により、建設省もしゃにむに進まざるを得なかった。しかしながら、政府部内で心配され始めたのは、五道関係者の強い要望に押されて五道以外の緊急区間の整備に手を付けられないようでは大変なことになる。…政府施策関連道路の建設という名目である。(241p)
  17. 昭和42年11月9日の審議会に…縦貫五道は、北陸道長岡・黒部間を除き(この区間は天下の難所「親不知」を含む地形急峻な地区で技術的に十分検討する必要があると判断された)全区間が基本計画として決定され(245p)

栗田部分に最も傍線が多いのは、高速道路建設がようやく現実に動きだした時期の高速国道課長(高速道路課長から継続)であるからか。土屋課長補佐時代と重なるからか。

建設省内では1965年3月ごろから世論を背に五道同時着工の準備を進めていたが、財務当局は従来通りの路線別重点建設を望んで折り合わず。基本計画決定は縦貫道審議会を通過しなければならないが、ここには学識経験者とともに与野党衆参両院の議員も名を連ねており、ここでも地域格差是正と経済効率の問題は衝突する。がこのため建設省としては利用料で採算の取れる路線から可能な限り着工という考えに立った。一方で、縦貫五道はそれぞれ促進団体の活動が活発で、どこが先行して着工できるかで譲らず。2の方針に立って財務当局の説得を図っていた。つまり当時建設省は、まったく異なる視点を持つ地域の促進団体と政治家、大蔵省のいずれをも納得させるプランと根拠を作らなければならなかったという話で、その意図のもと作成されたのが3。これを同年7月下旬に提示したが各道推進団体の納得は得られず、建設大臣の指示で自民党幹部に協力要請。ここで提案された方針をもとに計画を修正しつつ、縦貫自動車道十箇年計画を提示。

縦貫五道を(難所を除き)十年以内に貫通させることを建設省の方針として道路整備五箇年計画を改訂。盛り込まれていた縦貫道の建設費700億円を五道の用地買収費にあて、着工区間は概ね1,000km。しかしこの案でも了承は得られず、窮余の策が4。何度かの修正を経て8月6日に合意。この時の整備区間は1,020km、基本計画策定区間(基本計画に必要な調査が完了した区間)1,540km、その他の区間も10年内貫通を目指して順次着工とした。建設方針は204p。

7は縦貫五道十箇年計画が建設省のみならず自民党の政策となったものの、予算の裏付けはなく、各路線ごとバラバラの推進団体では心許ないとして全国自動車国道建設協議会を設立した話。初代会長は青木一男。

1965年10月に十箇年計画のうち政治主導で1,540kmの基本計画が済み、建設省はうち1,020kmは制度改定なしに整備計画に進めると判断。国会や建設協議会は早期に整備計画移行を求めるが、大蔵省と経済企画庁が反対。経済企画庁は新全総計画策定中に大規模プロジェクトは容赦できないという立場。折衝は年をまたいで続く。11,12はこれに対しての道路局案に関することで、従来整備計画には供用年次を明記していたが、これを外して整備計画をつくることで大蔵省と経済企画庁を納得させた。予算の裏付けがないため、これまで以上に政治と建設協議会、世論の後押しが必要になったという話。「この案の提示にはかなり迷った。…整備計画の重要な項目であった完成年次を外してしまったことは、これからの計画的事業執行に少なからぬ不安を残すことになった。予算を編成する大蔵省としては、完成年次に拘束されないから、毎年の事業費の削減をかなり自由に行うことができる」(233p)。

基本計画が済んだうちの整備計画に進めない520kmは利用料で建設費が賄えないなど、改訂なしに進められなかった路線。プール制は道路審議会の答申として1972(昭和47)年3月24日に出された。

高橋国一郎寄稿分への傍線

  1. 日本の高速道路建設費が従来のように諸外国よりも3−4倍高い事実を何とか解明し(251p)
  2. 年間建設速度をおよそ200キロのスピードにする必要がある。そしていずれ昭和55年までに3,700キロの高速道路を建設しなければならない(252p)
  3. 地表方式では、コストダウンのみならず、地域開発の促進という一石二鳥の効果が期待できたのである(254p)
  4. コストダウン策として、地表面方式の他に提唱し端野は高速道路設計の標準化、基準化であった。(255p)
  5. 県による用地の先行買収の制度が始まった(258p)
  6. 何とか地建でも高速道路建設ができるようにならないか、と地建の技術者が考えるのも当然のことであった。(261p)
  7. 昭和40年7月の瀬戸山建設大臣の五道十箇年貫通の指示は適切なものであった。東名のあとどこに着工するかなど議論していては数年のロスは明らかであったろう。そして「五道同時着工、1010キロ整備計画」を41年に実現していたため(263p)
  8. 「道路と国鉄の輸送分担如何」(264p)

十箇年計画に要する費用を2兆4千億円と見込み、「当時諸外国の例に比し極めて「高価な」高速道路であった。欧米諸国にくらべなぜわが国が三〜四倍も高くつくのか、国会でも質問が出るほど重要問題になり」(252p)、高速道路調査室の初期の仕事はコストダウンの具体策の検討だったという。

5は年間200kmの建設速度のための最大のネックが用地買収にあったために考え出されたこと。

6は整備計画までは地建が調査を行っているため、その後関われないという心情的なことだけでなく、公団に移ってからルートが変わることがしばしばあり、これが建設費を押し上げているという見方があった。名神は793億円でスタートして最終的には1145億円。公団地建間で作業、人事の相互乗り入れで対処した。

松崎彬麿寄稿分への傍線

  1. 44年3月17日には中央道富士吉田線が開通し、5月26日には東名高速道路が全通した。従って今後の建設計画の展開は(275p)

浅井新一郎寄稿分への傍線

  1. 昭和18年のことで、当時の内務省土木局の手によってまとめられた総延長5490キロに及ぶ全国自動車国道計画がそれである。この構想にもとづく最優先区間としての東京神戸間「弾丸道路」の調査は昭和17年から始められ…戦後は昭和26年に「東京神戸間高速道路調査」として再開(284p)
  2. これからの高速道路の建設コストを、そのサービス水準を維持しながら、如何に合理的に節減(289p)
  3. 高速道路のインターチェンジ間隔は、欧米の例でっみると、有料道路と無料道路では大きく異なり…平均して有料道路12.5キロ、無料道路では8.5キロとなっているのに比べ(301p)
  4. 全路線のプール採算制について検討を重ね…昭和47年3月にようやく本答申にまでこぎ着けた(304p)

山根猛寄稿分への傍線

  1. 昭和58年度までに全区間を供用することを目途に、中央、東北、中国、九州および北陸の各縦貫自動車道(314p)
  2. 「昭和60年度までに約1万キロを整備することを目途に、計画期間中には既設高速道路を含め約3010キロを供用する」という目標…昭和60年度約1万キロ、昭和52年度末約3010キロ供用目標は、それぞれ毎年690キロ、425キロを供用する速度に相当する…など直轄国道を取り込んだネットワークの形成、整備計画…高速国道の直轄受託の導入等々(316p)
  3. 環境問題などから厳しい…「一人でも反対があれば橋は架けない、その代わりみんなで泳いでわたろう」(320p)
  4. 高速国道への国費は、資金コストを6%とするよう(323p)
  5. (昭和26年)…夢の実現に邁進した人は、当時の道路局長菊池明氏であり、片平信貴道路企画課長補佐であった(344p)
  6. 昭和31年5月にワトキンス調査団が…従って迎える我々の準備も大変であった。2月から4月まで、三野定課長補佐を長に、現在日本道路協会のある旧尚友会館の八号室を借り切り、缶詰になって(350p)
  7. 「工事数量が最終的に多少変更しても、支払い支障が全然生じないこと、工事途中で設計変更の手間がややはぶけること、支払いの対象となる工事数量の検測に関連して、厳密な成功管理ができることなどから仕様書さえ完備していれば、総価契約方式よりも単価契約方式の方が合理的でしかも使いやすい」(359p)
  8. 美しい道路を造りなさい。自然の国土につけ込んだ美しい道路を後世に残すべきであるなどと、非常に高邁な設計理念を説いていた。(362p)

以降大塚勝美、武部健一、秋山寛一、布施洋一と続くが、高速道路がなかった時代の話が多く、北陸自動車道との関連が薄いため傍線が少なくなる。