新潟バイパス計画と県市の都市計画

新潟国道工事事務所作成「新潟バイパス計画概要」1966年9月より

  • 1961(昭和36)年度 計画調査費88万円(O.D調査11月21日24時間の新潟地区O.D表を作成)
  • 1962(昭和37)年度 計画調査費82.5万円(前年のO.D調査から新潟バイパスの将来交通量を推定、図上路線選定)
  • 同上        重要構造物調査98万円土質調査(架橋予定地点3箇所でボーリング調査)
  • 1964(昭和39)年度 実測線調査396.3万円
  • 同上        重要構造物調査99.1万円(鳥屋野橋の基礎テストボーリング2本ならびに概略設計)
  • 1965(昭和40)年度 重要構造物調査237万円(紫竹立体交差の基礎テストボーリングならびに概略比較設計) 
  • 1966(昭和41)年度 測量および試験費2,500万円(中心線測量、用地測量、土質調査、道路・構造等の設計)=ここで事業化

新潟国道工事事務所は1960(昭和35)年設立であり、設立後すぐ新潟バイパス計画に取り組んだことになる。1966(昭和41)年3月10日、金沢バイパス(柳橋町ー松任市宮丸間17km)のルート発表している。

新産業都市指定

1956(昭和31)年から始まる高度成長期は、地方にとっては昭和の大合併の時代(1953年町村合併促進法、1956年新市町村建設促進法)で、この時期で全国の市町村数はおよそ1/3に減少。新潟市は1954(昭和29)年から1961(昭和36)年までの間に松ヶ崎、濁川、南浜、坂井輪村と木崎村の一部、両川、曽野木、大江山村と内野町、赤塚、中野小屋村と合併し、戦前の市域からおよそ10倍と市域を大きく拡大した。

これにより全国で地方中核都市が生まれたが、所得倍増計画は既存の工業集積偏重で人口を吸い上げられる。1960(昭和35)年、読売新聞社提唱という形で「百万都市建設構想」(前段に1957年富山選出衆議院佐伯宗義による「百万都街化郷」・佐伯は富山電鉄創設者で戦前から「富山一市街化(富山県を一都市とする)」を提唱していた。読売新聞社主正力松太郎も富山県選出衆議院)が発表されると、地方中核都市では総合計画立案がブームのように広がり、政府では一極集中と格差を是正の機運が高まり、紆余曲折を経て、1962年全総の拠点開発を実現するものとして新産業都市建設促進法に繋がる(福武直「地域開発の理想と現実」)。

新潟市は7月に同法が施行されると10月に新産業都市課を設置して指定を目指す。当初全国4箇所程度で行う構想だったが、省庁と地方選出議員が利益誘導に走る一方、応募した都市が44に上り、同法を巡っては混沌とした状況があった。翌年指定されたのは15都市で、北陸地域では富山高岡、新潟(新潟県内では長岡柏崎を中心とした中越地域、高田直江津を中心とした上越地域も応募していた)が入っている。

新潟は新潟市を中心とした半径30km圏4市6町11村1,300㎢(現在の新潟市、新発田市、聖籠町と阿賀野市の一部を含む)で申請。地区生産額を昭和45年に5,835億円にすることを目標とする(35年からおよそ6倍)。うち3,055億円は既存工業地帯で受け持ち、2,780億円を新潟東港臨海工業地帯で受け持つ構想。新潟東港は1963(昭和38)年着工でこの時点ではまだ着工していない。臨海工業地帯には鉄工、重化学部門の企業誘致を想定していた。

昭和30年代の新潟市

1955(昭和30)年4月の市長選挙で村田三郎市長が3期目に入り「裏日本の雄都としての大新潟構想」を提唱、産業構造を工業立地に転換するとし、港湾土木に明るく中央とパイプを持つ五十嵐真作を助役に起用した。ところが以前から問題となっていた海岸決壊が人家にも被害を及ぼし、10月1日には市庁舎も焼失する新潟大火(災害救助法適用、焼失面積25,7400㎡、972戸、1193世帯)が発生。収税地の大半を失う。翌年には新潟港突堤決壊によって臨港地域で浸水被害が起こり、地盤沈下が問題となる。村田市長は3期目を復旧に追われて引退。次いで革新候補とわずか2000票あまりの僅差で渡辺浩太郎市長が誕生。1960(昭和35)年から新潟市総合計画の策定作業が始まった。

この頃の大型開発案件は関屋分水路と新潟東港(当時は「工業港」などと呼ばれていた)の建設。関屋分水路は地盤沈下が進む下流市街地の水位を下げるとともに、海岸決壊が進む新潟島へ土砂を供給するという喫緊の課題があった。県市で工事を行い、分水路下流本川を運河程度まで埋め立てて土地の売却益で工事費を賄う案もあったが、一級河川昇格により国の事業として1963(昭和38)年着工。東港は翌1964年に着工、この周辺に造成する臨海工業地帯が前述の新産業都市の目玉となった。

他の地方都市では人口減少局面にあったが、新潟市は30年代を通して増加が続き、通勤通学の昼間人口も増加。大型開発に加えて新潟国体を控えて新潟駅前のビル建設や市街地の整備、道路整備などが目白押しだった。

市内の自動車保有台数は1964年度24,000台余り(1958年度は7,000台)となり、市街地の渋滞が問題となっていた。村田市政3期目で助役を務めた五十嵐真作が1965(昭和40)年に新潟日報紙上で発表した「道路三倍増論」では、新潟地震前の渋滞の様子を、ラッシュ時は県庁から市役所までの2kmを歩いた方が早く、新潟駅から6km走るのに50分かかると表現している。

新産業都市建設計画とその顛末

国に提出した1964(昭和39)年12月の「新潟地区新産業都市建設基本計画」(社会インフラ整備まで含むため諸々割愛)では、

  • 1970(昭和45)年の域内工業生産額——-3,110億円(うち重化学工業で2,190億円)
  • 1975(昭和50)年の域内工業生産額——-4,650億円
  • 75年の目標実現のため東港周辺に1,010haの工業用地を造成
  • 上記への労働力確保のため新潟市駅南地区、新発田市、新津市で計1,200haの団地造成

1961(昭和36)年7月の段階では、

  • 地区内人口を1970(昭和45)年までに125万6,000人
  • 同就業人口を50万5,240人(1次—22.4%、2次—36.4%、3次—41.2%)
  • 掘り込み新港(水戸口600m、水深16m、4.5万t級の停泊可能)建設
  • 新港後背地で1970(昭和45)年までに800万坪(2,645ha)の工業地帯造成
  • 同地での工業生産額4,900億円、その他の既存工業地で1,200億円
  • 新潟市の工業生産額を1970(昭和45)年までに6,100億円(1939年で585億円)

という計画だったので、かなり割り引いた数字で落ち着いたことになる(いずれも新潟市市史資料編より)

築港は国、工業地帯は県の事業で進み、1969(昭和44)年11月18日(明治の新潟開港記念日に合わせたもので、この時点では1.5万tが入る1バースが完成していただけ)に開港。この時工業地帯で操業していたのが1社、次年度操業予定が1社あっただけで、予定地の買収(同年度末までに647.3ha)のうち451.9haしか済んでおらず、しかも1967年度以降で買収できたのが1割。内陸へ進むほど用地買収が難しくなってきている(同年11月20日付新潟日報)。

その後買収と企業誘致の不調から1973(昭和48)年「新潟東港臨海工業地帯建設事業の進め方」で

  • 工業用地 1,123ha—-1962年の計画1期、2期に分けて計3,600haからおよそ1/3に減少
  • この時点で売却済み面積—-276ha
  • この時点で売却内定面積—–34ha

さらに1984(昭和59)年「工業用地計画」では909haに改訂された。誘致企業も重化学工業としていたが、肥料、食品、ついでエネルギー備蓄となり、埋まらない土地に火力発電所が建設された。

新産業都市に名乗りを上げたほとんどの都市が結局不調に終わり、太平洋ベルトへの人口流失が止まらなかった。期待感が大きく、計画が盛りすぎで自治体がその負担に耐えられなかったこと、もともと全国4都市程度の想定から14都市も指定してしまったことで1都市あたりにできる投資額が少なくなり、拠点づくりたりえなかったとされている。

新潟バイパスの交通量予測

土屋は1963(昭和38)年の赴任時「当時はまだ、新潟バイパスの構想が煮詰まっていない時期でして、そこでどういうことが議論されたかと言いますと、「バイパス機能と国土幹線ネットワークとしての機能をどのように組み合わせて考えるべきか」ということがありました」(夢のある道路づくり)と語っている。この結論は「将来は幹線ネットワークの一部にするんだ、単なる都市のバイパスではないんだ」(同上)というもので、比留間豊道路部長と相談の上、通常初年度は2,000万円の予算要求が相場のところ、5,000万円を要求した。

バイパスではなく高速道路と同じ規格で道路をつくるための説得材料として、20年先、1985(昭和60)年の交通量を新潟市の人口推計、工業出荷額目標などと1961年、1962年に行ったO.D調査をもとに独自に推計。1965(昭和40)年の域内交通量を169,600台/日として10年後の将来交通量を2.8倍(475,672台/日)、20年後を4.7倍(797,455台/日)としたが、「4.7という値は、第5次道路整備5カ年計画の立案に際して、道路局国道第一課の示した全国平均値5.75に比してかなり低い値であり、日本海側最大の港湾都市であり、新産業都市でもある新潟地区の値としては低すぎる」とし、補正を試みる。

それは新潟県の過去の交通情勢調査による国道交通量と工業出荷額に相関があるというもの。ここから計算式を導き出して将来の工業出荷額(目標)から交通量を推定。その値は5.94倍となり「先に示した全国平均値5.75と余り相違のない値であり、新潟地区の交通の伸び率として適当な値である」とした。これにより、20年後の交通量を10万台/日の大台に載せた。(以上1966年9月新潟国道工事事務所「新潟バイパス計画概要」より)

さらに同年10月、管内技術研究会で発表した新潟国道工事事務所「新潟バイパスについて」(長井健,得丸正哉、村上村上修、小穴博保)では、交差部を平面交差にした場合、黒埼、桜木、紫竹山、竹尾は1975(昭和50)年までに、女池、海老ヶ瀬は1980(昭和55)年までに時間交通量を処理できなくなる推計し、インターチェンジの形を提案している。

10万台/日と予測した1985(昭和60)年は新潟バイパスが全線6車線化を果たした年で、交通センサスでは紫竹山で81,200台/日が記録されている。

新潟バイパスと地域高規格道路

地域高規格道路は1992(平成4)年に道路審議会から建議され、その2年後から区間指定が開始された。現在全国で3,000kmほどが地域高規格道路と指定されており、新潟バイパス、新新バイパス、亀田バイパスも地域高規格道路に指定されている。新潟バイパス構想が30年先行していたとも言える。