荘田幹夫と防雪工学ハンドブック

以下没後30年を記念した『荘田幹夫記念シンポジウム講演予稿集』2003より

荘田幹夫年譜

  • 1924年東京生まれ
  • 1947年北海道大学卒業、恩師中谷宇吉郎の推薦で鉄道技術研究所に入所。塩沢で雪害研究を開始
  • 1952年12月 東京電力(柏村良一ら2名)を受け入れ送電線着雪の観測を行う
  • 1956年 送電線着雪の研究に一応の成果を出し、雪崩研究に着手
  • 1957年 日本初の人工雪崩実験に成功
  • 1959年 土樽駅近くの斜面を実験場とし人工雪崩研究。発生作業は国鉄、測定を日本鋼管が行う
  • 1961年11月 日本鋼管中島洋を受け入れる
  • 1962年 人工雪崩実験を建設省が引き継ぎ、翌年実験場を国道17号沿い三俣へ移動させる。荘田、中島はそのまま
  • 1965年4月 スイスで雪崩国際シンポジウムがあり、荘田・中島が参加。この時スイスの雪崩防止工の示方書を持ち帰る
  • 1970年3月20日 成果を得て人工雪崩実験を終了
  • 1974年6月9日 出張先の長野県で急逝

「防雪工学ハンドブック」に至る過程

上越国道工事事務所は三国トンネルが開通した1959年に設立し、1961年から荘田の指導で雪の調査研究(結城康雄、阿部勉か)を行っていた。その後北陸地方建設局が雪崩実験を引き継ぐ。国道17号の一次改良完了は1967年で、上越国道管内(県境から長岡市)の幅員は関東側と同じ幅員5.5m(33p和田)で作られていた。

1964年11月に、日本建設機械化協会内に古川巌、荘田幹夫、土屋雷蔵を中心にして国道17号の防雪対策を研究する委員会を設置(年月は和田惇『冬季道路交通確保対策の発展過程と今後の課題』1985より)、そこで中島がスイスから持ち帰った雪崩指針を輪読。

古川委員長はこの委員会の輪読の成果をもとに各委員に執筆してもらい、これを防雪施設の設計要領、または指針とするよう提案され、第一次原稿を集めた。しかし、集まった原稿を見て、荘田先生はもっとレベルの高い全国向けのハンドブックとして出版すべきだと提案された。すでに集めた原稿を各執筆者に変更をお願いすることはできないと判断し、荘田先生のご指導をいただいて、事務局の責任で編集、書き直しをすることとした。この指導を受けるために幾度となく荘田先生を訪問することとなり、さらに、委員会も何度も持たれ、多くの議論がなされた。委員会では防雪工学という新しいジャンルの工学をつくったということで、防雪工学ハンドブックと命名し出版された。

『荘田幹夫記念シンポジウム講演予稿集』和田惇34p

委員会は古川、荘田、土屋のほか小川哲夫、作業班として中島洋、木寺謹治(日本鋼管)、阿部勉、森本裕(建設省)、事務局に和田としている。