新潟地震

概要

  • 1964年6月16日 13:01’40※新潟国体閉会式が11日
  • 震源 北緯38.4 東経139.2粟島南方の日本海
  • 震源の深さ 40km
  • 規模 M7.5(当初は7.7と発表された)

1948(昭和23)年の福井地震を抜き地震の規模は関東大震災に次ぐとされ、都市インフラを破壊し初の「都市型地震」といわれた。この頃東京オリオンピックを目指してテレビ局はカラー化が進んでおり、カラーニュース映像が全国で視聴された初めての地震となった。発生当日の夕方には昭和石油から立ち上る噴煙や昭和大橋などショッキングな映像が全国放送されている。NHKは17時のニュースで新潟市、佐渡、東北の様子を伝え、19:40から20分間特別番組「新潟地震」を放送。

新潟地震を特徴付けることとして、

  • 広範囲で液状化現象が観察され、新潟空港に居合わせた撮影クルー(地震の撮影ではなかった)が初めて液状化現象の撮影を行った
  • 日本で初めての石油コンビナート火災が発生した
  • 福井地震の死者(福井、石川両県で3,769人)と比べ26人(新潟県13、山形県9、秋田県4)と圧倒的に少ない

ことが注目された。

「新潟地震の記録」(新潟県)に、建設省土木研究所長村上永一の言として「相当大きな地震で、家が曲がってまさに倒れようとしているのに瓦が一つも落ちていない。これは非常に変わった地震であると思いました。…震度計からとれた結果を見ますと、6秒ぐらいの周期の地震であった。しかも震動が非常に長い時間出ていた。だいたい10分くらいということで、ともかく変わった地震」。長周期であったために昭和大橋の落橋、タンク(油面の固有周期が8秒で共振した可能性あり)火災が起こったと指摘。出典は月刊建設8号座談会「新潟地震の特色を語る」。

津波

気象庁は津波警報を13:15に発令、14:35に解除。

粟島浦村では地震後住民はすぐに竹藪へ避難。「海面が急激に低下してゆくのを見た者があり、波の引いた後津波が来るのは必定とみんな恐怖の数刻を過ごした。そのうちようやく島全体が隆起したことに気づく者があって、初めて余震の合間を見ては家財を取りに戻るといううおうなことが始まった」(粕谷文雄村長・「新潟地震の記録」37p)。隆起は粟島東部内浦で1.5m西海岸で80cmの隆起。津波到着は13:10~20とみられ「押し寄せた波高は島の隆起量より若干上回った」(同38p)。

村上市周辺では13:10~20ごろに到達し、波の高さ300~390cmと最も大きな津波が起こっている。岩船港では漁船が500mほど上流の明神橋まで押し流され、橋の下で折り重なって転覆。港に繋がる石川沿いおよそ70戸が浸水被害に遭った。佐渡では両津湾に面して400戸近くが津波で浸水。

新潟市では14:25頃の第三波が最も大きく、万代島付近で234cm。信濃川をおよそ14km遡り、下流部の堤防を破壊し、両岸が浸水した。

火災

昭和石油新潟製油所は旧工場と新工場の2つともで火災。旧工場1,000klタンク(内容量964kl)の引線パイプが折れてガソリンが噴出。防油堤外に流れる。新工場では30,000klのタンクが震動で蓋が開いて原油漏れを起こす。これが津波浸水によって水に浮いて広範囲に広がった。旧工場は地震発生直後に火災が発生しているが、最も延焼面積の大きかった火災は17時頃に発生した火災で、引火の原因は昭和石油に隣接した三菱金属説、静電気説等あり。相次いで爆発を起こし、新工場では30,000klタンク3基、45,000klタンク2基を焼失。旧工場では138基のタンクを焼いた。

この時電話は不通で通報ができなかったが目視で消防が出動。ただし道路が寸断され避難民もあふれていたため到着したのは17時ごろ。輻射熱で周囲に近づくことができず、避難誘導に終始。当時新潟市には化学消防車がなかった。県警は空からの消火を要請し、17日正午頃米軍機が4,000ガロンの消化剤を散布したが消火に至らなかった。この日までに昭和石油社員寮、病院、民家およそ170戸を焼失、工場では燃えるものはほぼ全て燃え、火の勢いは弱まっていた。18日早朝に東京消防庁から派遣された化学消防車5台が到着し、ようやく消火活動が展開される。20日午前でようやく鎮火した。延焼面積は2工場の火災合わせておよそ6万㎡、349棟を焼いた。

石油流出と火災は昭和石油だけでなかった。通船川沿いの成沢石油(松島)で重油に引火して15棟1,502㎡を延焼。同地内の道路に埋設してあった日本石油送油管が破損して漏れ出したところへ、通行した自動車の排気で引火して日東紡績倉庫や民家など1,479㎡を延焼。この2件は自然鎮火するまで燃えた。

液状化

新潟市街は昭和30年代に激しい地盤沈下にみまわれていたところに液状化、津波の遡上による堤防崩壊のトリプル苦で長らく泥濘に埋まったが、農村部でも液状化によって田んぼへの泥砂噴出や用水崩壊など被害は大きかった。詳しくは省くが、液状化によるとみられる死者は以下

  • 小針で広川チヨさん(25)が地下水を噴出した地割れに落ちて死亡。砂の間から片腕だけ地上に出ていて発見された。
  • 山形県酒田第三中学校の校庭を避難していた女生徒が液状化した地割れに落ち、そこへ水が噴出して姿が見えなくなり死亡

塚田知事

北海道出張中で当日は野々山重治副知事が13:30に緊急部長会議を招集し、新潟県地震対策本部を設置、新発田、高田に自衛隊の出動を要請。17日に帰朝して副知事の報告を受けた後被災地を見舞った。

塚田知事は17日帰朝後、野々山副知事の状況説明ももどかしげに、直ちにアノラック、スキーズボンに着替え、白々と明けの新潟市内の災害現地を見待った。

最初に訪れた川岸町では、土台から根こそぎひっくり返った県営アパートの惨状に目を真っ赤に泣きはらして「気の毒に…」と震え声で一言言ったきり。マンホールが軒並みにデベソのように突き出し、はらわたをつかみ出したような亀裂と泥海の道々。古ぼけた土建業者のバスの中で体を寄せあって恐怖の一夜を明かした被災家族たちに知事は見るに忍びないといった表情で体をふるわせていた。特に明訓高体育館いっぱいに避難していた被災者たちの前では、自分の犯した罪のように「すみません、本当にすみません。ただ一生懸命に…」と後の言葉が続かず、とうとう堪えきれずに声を上げて泣き出した。知事と一緒にすすり泣く被災者たちもいた。

次いで立ち寄った県立がんセンターでは「おかげさまで患者も建物も大丈夫でした」と言う職員の説明にやっとほっとした表情。しかし2型国体で全国に起こった美しい街も生き地獄に一変したような悲惨な状態に、時々の足取りが重く暗かった。

新潟日報6月17日夕刊1p

道路

新潟市の東西をつなぐ橋梁は、昭和大橋が橋桁が落下、八千代橋は橋脚傾斜、取り付け道路の陥没などで左岸側橋台で1m以上の段差を発生。萬代橋も橋台部分を大きく損傷。車両通行可能なのが萬代橋から6km上流の帝石橋のみで、萬代橋の応急復旧、全国から応援が入ってくるまでに7,8号を通すことがが速やかな救援、復旧に不可欠だった。地方道では松浜橋始め10橋が落下。幸いこれによる死者はなかった。

新潟県公安委員会が16日20時、災害対策基本法に基づく広域交通規制準備指令を出し、17日9時から交通広域規制を実施。緊急車以外の新潟市への車両乗り入れを禁止。18日からは国道8号の規制線(黒埼町大野)を三条市五ノ町まで延長。17−27日の11日間で県警が発行した通行確認証明書は14,052枚だったが、偽マークが横行し市内交通を混乱させた。以降新潟国道と北陸地建の動き

16日

夕刻までに管内の7,8号の被害状況を把握、本局からは17日朝までに交通を可能にするようにという指示。

新潟市内建設業者の車両の多くが水没して使えないため、7,8,49号の市外から機材資材を搬入。8号大野大橋で取り付け部分が大陥没したところは白根出張所指揮で白根、三条の国道改築に従事していた業者によって地震発生から2時間で復旧作業に着手。7号は新発田、中条、荒川町等で国道改築に従事していた業者を動員。萬代橋両側は49号亀田、新津方面から招集。泥土排出、砂利、砕石、砂などで陥没を埋めてからアスファルト乳剤等で防塵処理、あるいはアスファルト合材などで17日朝には概ね通行可能、萬代橋は9時から台数制限をしながら2車線で通行。

この時の萬代橋

「あとで坂田さん(坂田中北陸地方建設局長)に話を聞いた時には、坂田さんは16日から3日間くらいは落ちると思っていたようで」(土屋)

「坂田局長は現場にすぐ飛び出して萬代橋を見たようだ。取付けの壊れた状況を見たら、誰も大丈夫とは思わないですよ」(片山重夫新潟国道工事事務所長=当時)

17日

未明に砂利を満載したトラックで萬代橋の荷重試験を行ったところ、側径間アーチで「みしみしと不気味な音をたて」(「新潟地震による国道の被災について」8p)、同日補強工法を検討。両岸側径間に丸太で支保工を施すとともに、地建管内の組み立て式応急橋(どんなものか不明)、中部地建からも2セットを搬送依頼。

18日

昼夜兼行で萬代橋補強工事

「ところが材木が来ないわけですよ。川にいっぱい貯木場の材木がプカプカと浮いていまして、あれを調達して使おうということで使った。それは檜の木でして、新潟の大手地元業者の刻印が押してあったらしい。警察にはこれを使いますよということでそれを調達し、後でちゃんとお金は払ったんです。高いものにつきましたが、非常に役に立った。道路法の中に災害のときは調達して使えるような規定があるわけです。この法律を適用してやろうとしたらみんなビビりまして、盗んだということになると刑事事件になって大変だから警察に了承をとってからやりましょうということになったんです」(新潟国道30年史片山13p)

「調達という意味では8号の復旧は全部砂利を調達して埋めたんですね。骨材プラントの砂利をみんな持ってきた」(同上土屋)

「新潟地震による国道の被災について」9Pの表現だと状況を見ながら補強をし続けたということか?

この間萬代橋は車両1日数万台のほか自転車、歩行者が殺到し、県は萬代橋ー帝石橋循環の一方通行を決定、19日から実施。市内は給水車や援助物資の車両を含む大渋滞となり、循環13kmで完全に車両が繋がった状態となる。

20日

萬代橋のみは○災ステッカーを発行された車両(緊急輸送、社会インフラ復旧車両)のみ逆走可

7月2日

八千代橋開通(一方通行)により午後からは萬代橋の規制解除

7月4日

八千代橋一方通行解除

鉄道

13:10新潟支社庁舎脇に震害対策本部を設置し状況把握。主に通信回復と夜間照明確保に努める。新潟駅構内は陥没、笹口跨線橋落下、港湾関係の貨物線は壊滅的で応急復旧不可能、越後線は各地で陥没、白山駅ホーム崩壊、信濃川橋梁傾斜

17日早朝までに上越線、亀田以南の信越本線応急復旧、上野ー新潟間の急行列車は新津折り返しで運行、信越線連絡は亀田ー新潟間を自動車で連絡

18日新潟駅北東およそ500mに笹口仮乗降場を設置し、ここを発着所とした

19日13:40過ぎに長岡発の6両編成が地震発生後初めて乗り入れ、上信越線、白新線の列車を構内に引き込めるようになる

20日新潟駅周辺、羽越線勝木ー小岩川間(19日の余震とその後の激しい雨で土砂崩壊)、磐越西線白崎ー津川間(17日に開通したものの、その後落石の危険)を残して開通、50%の運転に達した

24日笹口仮乗降場から新潟駅までも一部列車で乗り入れ開始。最初の列車は急行「越後」(上野行き)5:47分発で7番ホーム。保線区員や自衛隊員らからバンザイの声がわきあがった。

7月7日越後線白山ー関屋間開通

7月12日白山ー新潟間開通、これで旅客関係は全通

電鉄で特に被害が大きかったのは国道8号道路中央を通る新潟交通燕ー県庁前の軌道。住宅と密接しているため復旧を急ぐことができず、燕ー東関屋間のみ早期復旧し、県庁前までの区間は年末から工事を開始して翌年1月1日に復旧。

その他

19日朝、河野一郎建設大臣、新潟地震対策本部長として来県。海上自衛隊大型ヘリで新潟市陸上競技場に着陸した。県庁で会見の後被災地を視察、15時に帰郷。会見では速やかな復旧と支援のほか新潟地域に激甚災害特例法適用する用意があること、新産都市指定を不安視する必要がないことなどを述べた。

20日未明から降り始めた雨で、前日ようやく地面が見え始めた長嶺地域で栗ノ木川堤防が崩壊し再び浸水被害

21日池田首相13:08新潟仮ホーム着の列車で来県。激甚法適用を口約束し、塚田知事はこの日適用を申請。新産都市についても問題はないと言明。